ベリベリはがす プクプク膨らむ それがフォトコミュ -フォトコミュベーシック4回目ー
こんばんは、プリンスのむけんです。
この自己紹介は小っ恥ずかしいので今回限りにします(笑)
(でも1回言ってみたかったのー!)
日曜はフォトコミュベーシックの4回目でした。
テーマは【発信】
最初は「今回の授業を受けてどんな事が出来るようになりたいですか?」って言う問いかけから。
「のむけんはこうしてブログも書いてるし「自分の思ったこと、感じたこと、気付いたこと」の発信は出来てる。
でも「こういう事ができます」「こういう事をしていきます」って言う宣言のようなものはすごく苦手です。
それはこれまでの人生で何も積み上げてこなくて手当たり次第に手を出して生きて来て自分の過去に軸がないから。
自信をもって「これが得意です」って言いきれるものがないから。
だからこれからはそういう物が発信できるようになりたい。
あと人付き合いも基本受け身なので自分から人を誘ったりと言う発信もしたい。」と答えました。
続いて毎回恒例の撮りっこ。
フォトコミュベーシックでは毎回授業の前半で受講者同士ペアを組んで撮りっこします。
それもただ撮るだけじゃなくて相手のいいところを褒めながら撮りっこします。
最初これが恥ずかしくて出来なかった。撮るのも撮られるのも。
心理学のセミナーとかで「相手の価値や魅力、才能を伝える」って言うワークは結構やっているので褒めるのはまあなんとか出来てもそれをしながら写真を撮るなんて全然できませんでした。
でも、やっぱり何事も慣れなんですね。
受講生同士打ち解けてきたのもあるけど今日は撮られるときは自然とポーズも取れた。
撮るときも「相手のこういうところをこう表現したい」ってイメージを少しは持てた。
そのイメージに近づけるべく撮影中に写真を確認しながら設定を変えたりちょっとポーズをとってもらったりとすこし気持ちに余裕が有った。
最初の頃の「とにかく早く撮って終わらせなきゃ」「間が持たん」みたいな感じがなくなってた。
とにかく人が苦手で人を避けて生きてきたのむけんとしては撮影の中でも人物撮影、ポートレイトと言うやつは最も苦手だし避けてきた分野。
だから今回の写真も「撮った」と言うよりはまだまだ「撮れてた」に近い。
でも苦手だったことが僅か4回でこれだけ慣れて、キライだった事が少し楽しくなりかけてるのを感じた。
今まで思ってた「苦手」「キライ」っていったい何だったんだろう?なんて思いました。
その後例によってちょこちょこ話は脱線しつつも授業は進んでいきます。
テーマが発信なのでSNSでの発信とかそう言う話もありました。
話はいよいよ授業の核心へ。
それは「写真に言葉を添えて発信してみよう」「写真に言葉を添えるとギフトになるよ」「それをフォトコミュではフォトラッピングって呼んでるよ」って言う内容。
写真って当たり前だけど1枚の止まった映像。
そこには写真を撮った時の感情や気持ち、音や温度や湿度や味やにおいや感触は写らない。
だから写真にそういう言葉を添えてあげると伝えたい想い、メッセージがより伝わるよって教えて貰いました。
確かに以前書いた写真アルバムの話もただ写真が貼ってあるだけじゃなくて横に「健馬の力作。キリン、ナス、リンゴ」みたいに書いてあったから父が「健馬、これは何だい?」って聞いてくれたであろうことや、その時父がニコニコしていたであろうことが想像できて響いたんだよねー。
また写真を撮るときに「この写真で何を表現したいのか?何を伝えたいのかをより具体的に考えると(イメージの言語化をすると)より写真の意図が明確になる」らしい。
逆に「伝えたいメッセージがあって、でも言葉だけじゃ伝えきれない。そんな時にメッセージに合う写真を添えてあげるとよりメッセージは伝わるよ」とも教わった。
何となくのむけんは写真の撮り方、フォトラッピングって人生に似てるなーって思った。
写真で言うとイメージの言語化をしっかりやって、そうやって撮った写真だからこそ言葉も添えられるし発信も出来る。
そうやって少し先のやりたい事、なりたいものを見通して写真を撮る、計画性をもって人生を組み立てる、そんな風に思った。
でもこれまでののむけんの人生は写真で言うところのイメージの言語化をしてない。
行き当たりばったりのノープランで「なんとなく楽しそうだから」「なんとなくお金になりそうだから」「なんとなく上手く行きそうだから」「なんとなく親が喜びそうだから」そんな風に目先の事ばかりで生きてきた。
こう言う発信をしたいから、こういうメッセージがあるから、今こういう写真を撮る!みたいに
こうなりたいから今こういう勉強をする、こういう体験をする、こういう仕事をするという「こうなりたい」を真剣に考えた事がない。
冒頭に書いたようにのむけんのような人間が「これが出来ます」とか「こうなります」とか言っちゃいけないと思ってた。
でも発信したいメッセージに合わせて過去の写真を引っ張り出すように、こうなりますって言うイメージに過去の体験を持ってきても良いのかもってなんとなく思えた。
説得力はイマイチかもしれないけど、なんとなくそれもアリかって思えた。
で、話は飛ぶんだけど普通写真教室って「写真を上手く撮る方法を教わる」みたいなものをイメージすると思うんです。
これは雑談の中とか脱線した時とかに何となく思ったことなんだけど、フォトコミュって「写真を上手く撮る方法」みたいなことを教えないんですよ。
普通にイメージする写真教室みたいに「こう言う写真を撮るときはこうしましょう」みたいないわゆる「答え」「正攻法」「答え」的なものはあんまり教えないし、教えたとしてもひとつの方法論としてだけ。
その代わりに「自分らしい写真を撮りましょう」ってことや「そもそもの自分らしさって何だろう」っていうところを教えてくれたり向き合わせてくれたりします。
そういうスタンスだから苦手なポートレート撮影も凄く気楽で思った通りに撮れる。
いままで「苦手だ」「キライだ」って思ってたものが「なんとなく楽しいかも」とすら思える。
それに「あっ」って思うものも自由だし、それをどう表現するのも自由。
「お花はこうでしょ!」「もっと絞りを開いて」「被写体に寄って」「前ボケをうまく使って」「ホラホラ、後ろもちゃんとボカさなきゃ」みたいだと確かにそれなりにうまい写真は撮れるかもしれないけど自分の表現したいものじゃなくなっちゃう。
守破離じゃないけど「まずはセオリーを守って、それから自分らしさを表現しましょう」って言う考え方もあるとは思う。
でものむけんの場合は「守」をしてしまうとそれは「べき」「ねば」になってしまって、「正解」を追いかけてしまいそうだし、べきねばからの破離は精神的な壁がものすごいあるように思う。
もともとのむけんはべきねばが強い所があるし、精神的な壁がものすごいあって「自分らしさ」を出すのがすごく苦手。
だからフォトコミュの自分らしい表現をものすごく大事にしてくれるところ、そして自分や被写体とじっくり向き合わせてくれるところは自分軸を確立してくれるしのむけんにはすごく合ってるように思う。
わずか4回のレッスンを受けただけだけどこれまで着込んでた鎧がベリベリとはがれて行くのを感じた。
そして写真の表現の幅、写真に自由なイメージや言葉を添えて表現、発信するって言う表現の幅、ひいては生き方の幅がプクプクと膨らむのを感じた。
フォトコミュ内にはフォトラッピング部って言って誰かのお題写真にコメントで言葉を添えるっていう部がある。
それはのむけんにとってはメチャクチャ恥ずかしくて出来ればやりたくない事なんだけど、なんとなくこの恥ずかしさ、怖さを乗り越えたら自信が付きそうだし表現の幅は半端なく広がりそうな予感がするのでちょっとずつチャレンジしてるところです。
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