17歳で大病を経験 ー強力な免罪符を手に入れたのむけんー 後編
おはようございます、のむけんです。
1月ほどの検査の後、手術となりました。
もう昔の事なので細かくは覚えてませんが結構長い手術だったと思います。
麻酔科医の先生と「注射失敗しないで下さいよ~」
先生「あ~、失敗しちゃった~♪」などと言っているうちに麻酔が効いて
気が付いたら体中に管がいっぱい刺さってて集中治療室のベッドの上にいました。
とにかく頭がズキズキしてたのと喉が猛烈に乾いてたのを覚えてます。
近くに母がいたので頼んで水を飲ませて貰ったような記憶があります。
その後の経過は良好で翌日には普通の個室に移りました。
個室に移って1週間ほどで管が外されて大部屋に移ることが出来、その後1週間ほどで退院となりました。
退院時に先生に「手術で脳下垂体に触っているので君は免疫ホルモン、成長ホルモンが出ない。非常に疲れやすいし、そういった意味でカラダ年齢は60歳なので若いからと言って無理はしないでください」と言われました。
入院中、特に手術後は殆ど寝たきりだったので筋肉が落ちてました。
それにプラスして先の先生の言葉です。
僕は疲れやすいんだ、体力がなくても仕方がないんだ、そんな暗示にかかってしまいました。(正確に言うとそういう暗示を自分にかけて都合よく利用しようとしました)
いまだにものすごい疲れやすいので確かにそういった側面はあるのかもしれませんが、ことあるごとに「僕は病気だからしょうがない」、そうやって辛いことから逃げるようになりました。
両親は入院中の事も知ってるし医者の話も聞いているのでこれを言うと何も言えません。
周りの人も良く解らない難しい病気の話をされたら「まーしゃーない」みたいな感じです。
それをいいことにその後はすべてと言ってもいいぐらいに病気を免罪符に使って逃げ回ってきました。
今思うとそうやって逃げて得をした気になって「病気だから仕方ない」と自分に言い聞かすことによって「僕は出来損ないのポンコツだ」って暗示をかけてたのに。
ほんとバカですねー。
話は変わりますが入院中、仕事の合間に父もお見舞いに来てくれました。
手術前に来てくれた時、僕は検査が有ったので母と病室を出て検査室に行きました。
なんでかは解りませんが父はそのまま病室で待ってる事になって、僕と母が検査から帰ると父が僕のベッドでいびきをかいて寝てることが有りました。
それに母は物凄く怒って
母「こんな時にこんなところで良く寝てられるわね!心配じゃないの」
父「心配だけどこんな時、男なんて出来ることないもん」「そんな風に言われるなら仕事に戻る」
とケンカになることが有りました。
(それにしたってベッドの上で大の字で寝るなんて父親ながら大物だな~)
それ以降母は「あんな時に心配じゃないのかしら。信じられない」と言い
父は「男はお金を稼いでなんぼ。心配したってお金が増えるわけでも病気が治るわけでもないだろ」ってお互い譲らず。
急速に両親の仲は悪くなって行きました。
退院後、手術のために髪は剃ってしまったのでカツラをかぶり、何事もなかったかのように通学しました。
先生からは浪人しての大学受験を勧められましたが、高校が好きではなかったしそもそも大学も受けたくなかったのむけんはそれを辞退してそのまま卒業しました。
卒業後は浜省の歌詞、「アルバイト~、電車で横浜まで~♪」ではありませんが横浜でバイトをしました。
(そういえば浜省との出会いは入院中のラジオだったなー(´▽`)
昔から家に居ずらかったことに加えて両親のケンカも増え気まずさ、自分のせいでという罪悪感もあってのむけんは成人すると一人暮らしを始めました。
その後はアルバイトを転々としましたが、見かねた父に声を掛けられ父の会社を手伝ったりもしました。
ですが次第にそれも上手く行かなくなりまたバイト。
そして金銭的に立ち行かなくなり実家に出戻ったり、今度は弟の仕事を手伝ったり、父と大喧嘩して実家を追い出されて車の中で生活をするプチホームレス生活をしたりと30代前半まで本当にブラブラとした生活を続けました。

のむけん

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